これまで私は、情報デザインとは「モノ」ではなく「コト」のデザインである、と主張してきたが、実のところ、モノからまったく遊離してコトだけを純粋にあつかうデジタルなデザインには陥りやすい落とし穴がある。
人間の知覚や行動について研究してきた認知科学の知見は、情報デザインにとって無視できない「環境と身体のかかわりあい」の重要性を私たちに教えてくれている。
まず、忘れてはならないのは、この物理的な世界そのものが最初から豊かな情報空間であるということだ。
まったく当たり前のことのようだが、これを大前握としないかぎり、情報デザインは上面の表現のテクニックやスキルの問題として片づけられてしまいかねない。
人間を含む動物は、この世界にあふれかえる情報をその身体を道具にして読み取っている。
言い換えれば、この世界には、私たちが感じ取ることができる「価値ある情報」があちこちに存在していて、人間を含む動物はそれぞれのやり方で、こうした情報をあちこち探索しながら生きている、ということになる。
このような視点は、「アフォーダンス」という認知科学における革新的な考え方によってもたらされた。
従来の認知科学では、人間は目や耳のような感覚器官を通して環境から刺激を受け取り、それが神経を伝わって脳が情報処理を行い、意味のある情報に加工している、と考えられてきた。
ところが、アメリカの認知科学者ジェームズ・ギブソンは、この考え方をひっくり返す画期的な理論を唱えた。
ギブソンの主張はこうだ。
情報はすでに、私たちの周りに充満している。
環境にはそれ自体でおのずと意味をもった情報が存在している。
だから、知覚というのはそれらの情報を直接手に入れる活動であり、受けた刺激を頭のなかで情報に加工することではない、と。
たとえば、地面の上に、ひと抱えほどもありそうな大きな石があったとする。
それには、どんな情報が含まれているだろう?ある人にとっては、その石は「またぐ」ことを、別のある人にとっては「腰掛ける」ことを、赤ん坊にとっては「よじ登る」ことを、そして杖をついて歩いている目の見えない人にとっては「よける」ことを意味しているだろう。
このように、大きな石ひとつとっても、そこには知覚する人にとっていろいろな意味をもった情報がすでに含まれている。
こうした情報を、私たちは世界の持続や変化として「ピックアップ」している。
たとえば、地面に石があるかどうかは、地面を覆っている独特のキメの状態や「面」がどんな風にレイアウトされているかで知覚される。
いまあげたような一つひとつの情報のことを、ギブソンはアフォーダンスと呼んだ。
アフォーダンスは造語で、「〜できる」「〜を与える」という意味のアフォードという動詞に由来している。
環境のなかにあるすべてのモノは、動物に「与える」情報としてのアフォーダンスをもっていて、私たちは環境と接し続けることによってそうした情報を受け取っているのである。
アフォーダンス理論を日本で精力的に紹介してきた佐々木正人氏は、こう述べている。
アフォーダンスをピックアップすることは、ほとんど自覚なしに行われる。
したがって、環境の中にあるものが無限のアフォーダンスを内包していることに普通は気づかない。
しかし、環境は潜在的な可能性の「海」であり、私たちはそこに価値を発見し続けている。
自然に存在しているモノにも、人工的につくられたモノにもアフォーダンスはある。
人が作り出した道具はすべて、何か特定のことをアフォードするようにデザインされている。
たとえば、イスは「座る」アフォーダンスをもった道具だ。
しかし場合によっては、踏み台にしたり、何かモノを置いたり、障害物になったりもする。
つまり、あらゆるモノにはいくつものアフォーダンスが含まれているのであり、人はそうしたアフォーダンスを探り当てることによって、そのモノの使い方を自らデザインしているともいえるのだ。
アフォーダンスに満ちたデザインをアフォーダンスの考え方をデザインに援用することの重要性については、認知心理学者のドナルド・ノーマンが『誰のためのデザインフ・認知科学者のためのデザイン原論』(新曜社)などの著作のなかで再三主張してきた。
ノーマンの意見に耳を傾けてみよう。
アフォーダンスは物をどう取り扱ったらよいかについての強力な手がかりを提供してくれる。
アフォーダンスの特徴がうまく使われていれば、何をしたらよいかはちょっと見ただけでわかる。
絵やラベルや説明の文章も必要ない。
複雑なものには説明がいるかもしれないが、簡単なものには必要であってはならない。
単純なものに絵やラベルや説明が必要であるとしたら、そのデザインは失敗なのだ。
実際、世の中にはアフォーダンスをとらえるのに失敗したために非常に使いにくかった嘲り、わかりにくいデザインがあふれている。
ノーマンの『誰のためのデザイン?』には、どこを押すのか引くのかわからないドアや、どうひねればお湯が出るかわからない蛇口といった事例が数多く紹介されているが、そんな出来のよくないデザインに出くわす場面は私たちのふだんの生活でいくらでもある。
逆にいえば、「タンジブル・ビット」のような新しいインターフェイスの試みは、たとえば「ミュージック・ボトル」が瓶のフタを開けるというシンプルな行為に情報との出会いを重ね合わせているように、人が能動的にアフォーダンスを探り当てる力を巧みにとらえているという点で、やはりすぐれたデザインなのだと思う。
アフォーダンスが切り拓いてくれた「環境と身体のかかわりあい」の問題は、情報デザインにとって果たしてどんな意味をもつのだろうかフ・さきほど述べたように、人は潜在的にモノの使い方をデザインする力を身につけているのであり、その点からすれば誰もが「使い方のデザイナー」なのである。
したがって、もしよいデザインを目指すならば、人が自ずともっている「使い方のデザイナー」としての側面を無視することはできない。
本当に効果的なデザインを行うためには、デザイナーはそれが必要とされている場所に赴き、そこで活動している人と一緒に問題を探り当てるプロセスを踏む必要があるだろう。
つまり、情報デザインとは、いきなり「かたち」を描くことから始まるのではなく、デザインを必要としている場所で活動している人の経験の実相をすくい上げることから出発するべきなのである。
多摩美術大学・情報デザイン学科の須永剛司教授は、これからのデザインが向かうべきところは単なるモノづくりではなく、いかに使い手である人の活動の現場に寄り添って、彼らのモノを使う経験のデザインに踏み込んでいくかが課題だと語り、そうした考え方にもとづくデザインの学びを実践している。
須永氏らは、九八年に開設された情報デザイン学科で、学生たちと畑で野菜を育てたり、壊れた自転車を修理したりするといった活動をモチーフとして「つねにダイナミックに変化する=生きている情報」をかたちにする授業を行った。
また、二〇〇〇年度の三年生を対象とした演習授業では、保育園を対象にして、そこで働く保育士や保護者がふだん行っているコミュニケーションを観察し、そこから情報の道具づくりを行うという、使い手の活動をベースにしたデザインに取り組んだ。
このような授業の意図について、須永氏は次のように語っている。
あえてヨサパークのお手伝いをのため、ヨサパークと健康について説明致します。
ヨサパークです。ヨサパークの資格を取りたい方必見です。
ヨサパークを求める人が急増しています。ヨサパークは買いです!



